令和5年2月19日、高槻支院前主管者・関哉妙綾法尼(法名:広善院妙綾法尼)がご遷化されました。法寿96歳。

 関哉法尼は、前任の田中妙覚上人のあとを引き継がれ、昭和63年高槻支院の主管者となられました。以來今日まで新本堂の建立、研修棟建立、バリアフリー化など、高槻支院発展のために尽力されました。8年前病に倒れられてからは養護施設に移られ療養に専念されました。回復されてからは高槻支院の講日に足を運ばれ、元気な姿を信者さんの前に見せられていましが、寄る年波には勝てず、やがて施設から外出されなくなられました。その代わり関哉先生の誕生日が近づくと、信者ら有志で施設まで出向いて先生の誕生会を毎年開いていました。残念ながらコロナ禍の3年間は面会もままならず、ついにこの日が突然のようにやって来ました。

 関哉先生は大阪の広宣寺の時代から今日に至るまで、御開山泰山院日進上人、顕修院日達上人、そして現山首上人さまの三代のお師匠さまに仕えられたことを大変誇りに思われ、また感謝されていました。そして何よりも信者さんに対して分け隔てなく笑顔で接してこられ、特に子ども会・青年会の世代には時には母親のごとく、時にはお姉さんのごとく接しておられ、みんなから「あやこ姉さん」と呼ばれ、慕われていました。関哉先生は生涯独身を貫かれましたが、濵田運営委員長が弔辞でいみじくも語られたように、”法音寺と結婚され”多くの菩薩さんを世に送り出されたと思います。また聞くところによると、亡くなられる前日まで毎日身支度を整えられ、誰が訪問しても対応できるようにされていたとのことで、気持ちの中で常に法の衣を纏われていたのだと思います。最後は眠るが如く安らかに息を引き取られたとのことです。

 ここに支院一同、関哉法尼の生前のご恩に報いることをお誓いし、謹んで関哉法尼の増圓妙道をお祈り申し上げます。       

檀信徒の声:

○私は、新本堂が出来てからのお付合いになります。当初は大阪からの通いで、夜の講日が終われば駅までお送りさせてもらい色々な教化を受けました。ある時会社の事で忙しくしていたら、「お寺は年中休みは無いのよ」と言われ、ハッパを掛けてもらい元気をもらいました。何時もお会いする時は明るい笑顔で対応していただき、有り難かったです。それまでは高槻でバザーはしたことが無くて失敗した時、泣きそうになっていた私を大きな心で「大丈夫、大丈夫」と言っていただいて本当に嬉しくて、また頑張ろうと思った事もありました。施設に入られるまでの30年程の間に子供の誕生(胎教)や病気、改宗の時など、言い尽くせぬお世話になりました。また、いつも堪忍してもらっていた事を感謝しています。少しゆっくりされて沢山の先師の方の元へ行かれ、これまでのご報告をして下さい。

○17年前主人が亡くなった時に、知人から勧められて一人で高槻支院に初めて行きました。何も分からないまま不安を抱えてお寺の玄関に入ると、優しい笑顔で「よう来たなぁ」と言って親切に声をかけて迎えてくださり、嬉しかったあの時の優しい笑顔がよみがえります。色々とご指導して頂きありがとうございました。

○関哉先生には色々とお世話になりました。2月21日の講日の時、岩田上人が撮影された他支院の支院めぐりの時の高槻支院訪問のビデオを上映されましたが、その時の関哉先生の元気な姿を懐かしく拝見させて頂きました。告別式では、濵田葬儀委員長の感情のこもった弔辞を聞き感動して涙しました。ふと横を見ると妻も涙していました。色々教えていただいた先生に感謝し、これからもご法に励んでまいります。

○関哉先生、ご縁があって先生と同時期に高槻支院にお世話になって20数年になりますね。いつも先生はご法に理解のない主人の為に私の顔を見る度に「お父さんに感謝しいや」と仰っていましたね。もうそのお言葉を聞けなくなり寂しい限りです。このお言葉を忘れずに精進していきます。本当に長い間お世話になりました。ありがとうございました。

○私は関哉先生の下で20数年間お寺のお手伝いをさせて頂きました。時として厳しい教化を受け涙することもありましたが、私にとって堪忍行の大切さを教えてもらいました。またそのことによって私の罪障も取っていただいたと感謝しております。先生色々と教えて頂きありがとうございました。

○関哉法尼が施設に移られてからも年に一度は皆んなで施設に押しかけ、食堂をお借りしてケーキとジュースで即席のお誕生日パーティを催していました。とても喜んでくださり、ケーキの上のローソクを嬉しそうに吹き消される様子は今でも瞼に浮かびます。長い間ご指導いただき、ありがとうございました。

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